アレ。そのうち書き直そうと思ってるけどなかなか手が届かないアレ。
「……重くない?」
「そう聞かれたら重くないと答える。嘘でもな」
少女を乗せた車椅子を階段の上へと押し上げた男は、投げ掛けられた問いに背中越しにそう答えながら、むくれる少女を背後に残し先へ向かった。ドアを開ける。目の前に広々とした屋上が広がった。
幸い、やたらひどく動き回りでもしないかぎり床が抜けるようなことはなさそうだ。冷たい風が吹きつける。
「少し寒いぞ」
男は身を寄せてきた華奢な肩に上着を掛けた。少女を載せた車椅子が音もなく屋上へ漕ぎ出す。欄干近くまで進んで、少女は動きを止めるる。
少女の長い黒髪が揺れる。服の裾が風を受けてふわりと広がった。
背筋を張り首を伸ばし精一杯見渡す彼女は今きっと自分の見たことのない顔で、眼を輝かせているのだろう。後姿を見て男はそう思う。
こっそりと近づいてみた。男は少女のすぐ右後に立ち、取っ手に手を掛ける。
少女はまるで何かに気付いたように、唐突に、しかしゆっくりと振り向いた。訳もなく直立した。
少しの躊躇いの後、少女は口元に控えめな笑みを浮かべる。
「道葉さん」
「道葉でいい」
どうにも様にならない少女の呼び掛けに男は苦笑し、口を挟む。
「……じゃあ、道葉」少女は手を伸べ彼方を指差した。「あっちが南?」
「ああ」
「……海?」
視線を向けたまま、少女は尋ねる。男も縁の近くに立ち、辺りを見回した。
二人が立つ洋館の、敷地の向こうの誰もいない町並が橙色に染められ、路地に夕闇が忍び寄る。郊外に生い茂る草が風に波打ち、グラデーションが地平に広がる山々まで続いていた。
黄昏の夕陽は、今にも遠い尾根へと沈みつつある。
「多分そうだ」
「道葉は、どこから来た?」
「西から」
「西」
まっすぐに男を見つめる少女は小さく呟いて男の言葉を繰り返す。
「西には何があった?」
「いや、特に何か眼を引くものがあったわけでもないが」
観光に来たわけではない。何かを見てまわる暇も無ければ、蹂躙された国土には何か見るべきものがあるとも思えなかった。
「それでもいい。聞かせて欲しい。ここまで来るときの話とか、その前の話とか」
男は頷いた。この子はこの家から離れたことが無いのだ。彼の目には何の変哲もない背景として捨て去られる風景も、彼女の眼には信じがたいものに映るのかもしれない。頷いて、頭が勝手に思い出すままにゆっくりと話し始めた。
――俺が育ったのは何にも無い田舎町だった。ここなんかよりずっと田舎で。
この国の南東部に平野があるのは知ってるよな、確か大層な名前がついてたけどもう忘れた。その偉そうな名前のだだっ広い平野のど真ん中に、北のほうから、どこかずっと遠くの山から流れてくる大きな川があって、その川に沿って町がずっと続いているんだ。俺の町はその一番西にあった。
大きな店も無ければ広い道路も無い。この家みたいなでかい屋敷も無かった。本当に、本当に何にも無いところで、ただ、町の外れに一本まっすぐな軍道が走ってた。東から西に向かって走っていたんだ。
国防上の理由とか何とかで地図にも乗ってないような二車線くらいの小さな道路でな、もしかしたらこっから見えるあの道とも繋がってるのかもしれない。
戦争がまだ遠いどこかで行われてた頃――丁度君くらいか、少し下の年の頃だったと思う。自転車に乗ってその軍道を行ってみたんだ。まっすぐ、ずっとまっすぐ。軍道だから一直線で、周りには何にも無い。行く手にも何にも無くて、道路が小さくなって見えなくなるまで、まるで線路みたいにどこまでも続いてた。
夏の日のことだった。何でだろうな。倉庫から思い出したみたいに昔使ってた自転車引っ張り出して、水と食いもんバッグに入れて、大した金も入ってない財布持って、この財布は結局何の役にも立たなかった。それで、行ってみたんだ。西のほうへ。
何で西かっていうと、そういやさっきも言ったよな、東から西へ走ってるって。一方通行じゃないんだから道路がどっちに向かって走ってるなんてないのにさ、その道は西から東に走ってたんだ。あの町の誰に聞いてもそう答えると思う。なぜって、あの道を何かの車が通るときは何でか絶対西から東なんだ。
たまーにこんなごっつい軍用車がさ、何台も連なって西のほうへ行くんだよ。ほんとたまーに。何年かに一度くらい。でもその車は一度東からやってきて西へ行っちまったらもう二度と戻ってこない。何でだろうな、って子供心に不思議に思ったもんだよ。あん時は別の道通って帰ってんだな、って勝手に納得してたけどさ、もしかしたら、いや、もしかしなくてもあれって戦争に行ってたんじゃないか、って今思い返してみると思うんだ。
あぁ、話ずれてきたな、なんだったっけ、あぁそうだ、西に行ったんだよな。
何でかっつうとこの道路は西に進むもんなんだって、そう思ってたんだな。西には何があるんだろう、ってのもあったと思う。
そもそも町を出たのは何でだろうな。何にも無い町が嫌いだったからか、あの時の俺はどっか別の場所に行きたかったのかもしれない。ここじゃないどこかに。
延々と漕ぎ続けて、うんざりするくらい漕ぎ続けて、何度も引き返そうと思って、その度に来た道と同じ道を辿って帰るのが嫌で、俺は漕ぎ続けた。
そのうちに日が暮れた。
それで、夕焼けを見たんだ。ただの夕焼けじゃない。そんじょそこらの夕焼けじゃなかった。まぁ、幾らかは都合よく修正が入ってるんだろうが、それ差し引いても多分、何にせよ、俺の人生で一番記憶に残ってる夕焼けだ。
でっかいでっかい夕陽が地平線に近づいてって、そんで、地平線に向かって道路が延びてる。
俺は驚いたよ。腰抜かすぐらい驚いた。そんな光景があるなんて知らなかったから。
道路がその夕陽まで続いてるんだ。このままひたすら道路を進んだら、本当に夕陽に辿り着けそうだったんだ。
それが地球上の光景だなんて信じられなかった。
正直俺はそれくらい感動した。夢中になって追いかけて、漕いで漕いで漕ぎまくった。少しでも夕陽に近づけないか、って。手を伸ばせば届く気がした。あと少し前に進めば手が届く気がした。
道路と夕陽が繋がって、地平線に縁取られた広い広い空が、途方も無くでかくて痛いくらいに青かった空が、夕陽に染められていくんだ。
薄く広がった雲を貫いて、夕焼けが辺りを染め上げていくんだ。軍道も、原っぱも、何もかも。
夕陽が沈んじまう寸前だな。
何と無く気になって、ふと後ろを振り向いたんだ。東の空はもう暗くて、夕暮れのオレンジに端のほうから藍色が滲んできてて、俺は急に不安になった。
この道はどこまで、いつまで続くんだろう、って。自分はどこまで来てしまったんだろう、って。
西に行った車は帰ってこないんだ。
だから、だから自分ももう町には帰れないんじゃないか、って怖くなったんだよな。そう思った途端、どうしようもなく帰りたくなった。嫌いだったはずなのに、やっぱりそこが自分の町なんだよ。でもその町が、後ろを振り返ればずっと見えてた町が、いつのまにか見えないんだ。
怖かった。ほんと冗談抜きで怖かったよ。今でも覚えてる。必死にペダルを漕いだ。脚が棒みたいんなって、全然動かなくて、そしたら当然自転車は減速すわけだ、ふらふら揺れながら。ライトはタイヤの回転で発電するタイプの奴だったからスピードが落ちれば当然光量も落ちて、今にも消えそうな弱々しい光を途切れ途切れに発しながら、ふらふら進んで。そのまましばらくは進んだけど、ついにすっ転んで、派手にすっ転んで、足を怪我した。ほとんど感覚無いのにちゃんと血は出るんだ。最初は痛みなんか感じなかったんだけどな、血ぃ見てると何か痛いような気がしてきてさ、大した傷でもないのに涙が出るくらい痛くなって、俺はみっともなく泣いた。声を噛み殺そうとすると、どんどん泣けてくるんだ。道路にうずくまって、ずっと泣いてた。辺りは真っ暗で、地面のアスファルトは夏日に焼かれてまだ熱を持ってて、どうしようもなく身体の奥のほうが熱いのはそのせいだと思った。
それからどれくらいの時間が経ったのかはわからない。凄く長かったように感じたけど、多分大した事無いんだよな。
遠くに自動車のヘッドライトが見えて、つまりは親が迎えに来てな、あぁそうだ笑えるよな、親も多分、この道路は西に進むもんだ、って思ってたんだ。
Uターンするのにやたら苦労してた。何かくだらないことばっかり覚えているんだ。
家に帰ってから、俺は怒られるなって思ってた。思って、糞真面目に居間の隅っこに座り込んで、縮こまってた。そうやって怒られるのをずっと待ってたけど、結局、親は怒らなかった。逆だった。でも、何でだろうな、俺は怒られたかった。
足の傷を手当てしてもらって、そんで、俺の部屋は二階だったけど、その日は居間で布団に包まって寝た。なんでかっつーと親の部屋が居間の隣だったんだよ。
悪いけど、大したオチはないんだ。
俺の話はここまで。
「すまなかったな、つまんない上に情けない話聞かせちまって」
少女の眼がまっすぐ自分を見詰めていたことに気付いた。
「ううん、」
少女がかすかに首を振り呟く、後は続かなかった。
◇ ◇ ◇
人間は飯を食うものである。
だから、道葉は飯を食わねばならない。それは彼にとって至極当然の帰結であった。
戦争が終わって、既に半年以上が経っていた。早いものだ、と道葉は思う。そう感じるのは息つく暇が無いほどに生きる事に追われていたからかもしれない。
国民半分のその日の飯さえ賄えないほどまで落ち込んだ食糧供給は、戦争が終わってもかつてのように戻ることは無い。生み出す土地も人間も同様に失ったからだ。それでも、こういう場所になら食糧の備蓄があったとしてもおかしくは無かった。
敷地の周囲に廻らされた高い塀の東側に崩落した一部分を見つけた。高さは道葉の背丈よりも少し大きい程度。道葉は崩れ掛けた縁に手を掛け、慎重に身体を引き上げた。身を起こし、立ち上がる。塀の上からならば屋敷の全体像が掴むことができた。
地方の片田舎には珍しい豪邸だった。恐らくこの辺りの有力者か地主かの家だろう。
塀から飛び降りる。ここから先は私有地だ。しかし道葉は最近では、誰かの敷地に入るときに断りを入れるのも止めてしまった。
何故なら、誰も居るはずがないのだから。
道葉が意図的にそういう場所を選んで通らざるをえないのもあるだろうが、それでも道葉はこの数ヶ月間生きた人間とは出会っていない。
繁茂する雑草の陰に点々と並ぶ敷石を辿る。朽ち果てた館へと道葉は足を踏み入れた。
昼なお薄暗い館の中、麦秋の冷たい風が粉々に砕かれた窓から吹き込んでいた。夏の残滓をかすかに孕んだ、妙に息苦しい風だ。窓硝子が割れてからかなりの時間が経っているせいか周りにガラスの欠片はなく、ただ主を失いそこに在る意味を失った窓枠のみがそこに在る。足下の黒ずんだ床は風雨に晒され脆くなっているらしい。厨房らしき部屋へ辿り着く。第一歩目から床がぎしりと声を上げた。この部屋は他より痛みが酷い。
床に空いた穴に水が溜まっていた。辺りは染みも多い。天井を見上げて、その理由を知った。水溜りの真上に、青空が見えた。
頼りない足下に幾らかの注意を払いながら、道葉は室内の探索を始めた。開けずとも分かる。電力供給が途絶えているため冷凍庫や冷蔵庫の中身は当然ながら全滅。探すなら戸棚の中や上だ。調味料でもなんでもいい。期限切れから二年後くらいならまだ食える。しかし踏み台になりそうな物は無い。風雨に晒され、腐りかけて不安定な足場に少々不安を抱きながら戸棚へと登り、見つけた。
大量の缶詰。
ラベルの類は付いていない。中身が食べ物であるかどうかは微妙なところだ。抱え下りた缶詰をテーブルの上に置く。ひとつを手に取り、見定めた。裏返してみる。過去の忌むべき前例の二の舞を踏まぬようにだ。
賞味期限:永遠。
ふざけてる。
とはいえ、食えることは間違いないだろう。入っているのは食い物だ。
容器にプルタブの類は無い。しかし当然缶切りなどは持っていない。ベルトに差したサバイバルナイフを取ろうと道葉は腰に手を伸ばした。
「何か御用でしょうか」
薮から棒に掛けられた声に道葉は弾かれたように振り返った。後ろに回していた手で反射的にサバイバルナイフを強く握る。
「何をしていらっしゃいますか?」
ヴィクトリア調のメイド服に身を包んだ若い女性だった。
それがアンドロイドであることを道葉は細部の動きの違和感から判断した。しかしそれも末梢の人工皮膚の劣化がなければ気付かないレベルだろう。
精巧に作られた人間の似姿。このような大きな館なら主要都市からたとえ遠く離れた田舎でもアンドロイドの一つや二つ所有していてもおかしくはない。
「ここは当家の私有地、それは当家の私有物です」
主の消えた家をなお守り続けるか。滑稽に似た感想と一抹の哀れみを覚えた。
お前のようなロボットには必要ない物だろうにと思う。とはいえ、無理に強奪するのも厄介だ。無用な諍いは極力避けたい。道葉は他を当たる事に決めた。
「出口はあちらです。お引取りください」
館を後にしようとする道葉を察してか、アンドロイドが玄関を示す。
所々穴の開いた屋敷で滞りなく活動できるのならば、壁に空いた穴を認識できないとは思えない。融通の利かない辺りはやはり機械だ。
「出口はあちらです。それとも、」
構わず壁の穴を通り抜けようとする道葉にもう一度声がかけられた。明らかに声色が鋭さを増している。
「お客様ではないと?」
道葉は恐怖や警戒よりもむしろ感嘆を覚えた。確かに本来出入り口ではない塀の隙間から、それも指摘されてなお出て行くのも失礼な話だろう。
機械人形相手に礼を失ったところで何か不都合があるわけでもないが、この館の主人にも申し訳なく思う。ついでに、彼女が道葉を侵入者であると認識すれば、相応の対応が待ち構えるのは想像に難くない。
何にせよ、道葉は彼女に対する認識を改めた。彼女の頑なさは須らく彼女が機械であることに起因するものではないだろう。しかしそれは所詮市販されるアンドロイドのテンプレート化されたパターンの一つの、エモーショナルチップに設定された『ゆらぎ』に過ぎない。プログラムを妄信する機械人形でなくプログラムに従って判断を下せる機械人形というだけの話だ。
戦争の道具と、何一つ変わることは無い。
――しかし、
「ここの主人に会いに来たんだが」
鎌を掛けてみる。もしかすると、道葉と同じ生き残りの人間にお目にかかれるかもしれない。このアンドロイドの発言から、この館の主人が存在が臭うのだ。
「何の話でしょうか」
「話は聞いてないだろうが警戒しないでくれ。連絡が取れるような状況じゃなかったから」
「お引き取りください」
「そう言わず、」
「お引き取りください」
「……にべもないな」
全くもって感情の感じられない究極に事務的な返答には一片の反論の余地も無かった。仕方が無い、もう一度訪れた際にでも接触を試みればみればいい。そう結論付け、道葉は踵を返した。まぁ、そう簡単にいくものでもないだろう。
――ノイズ。
道葉は足を止めた。暗号化された通信が遣り取りされているらしい。恐らく目の前の彼女と屋敷の主人によるものだろう。その場に留まるべきか、早く立ち去るべきか。考えるまでも無い。身の安全を優先すべきだ。それでも、その場を立ち去るのには相応の覚悟が必要だった。
道葉が躊躇した一瞬、それがその後をわけた。
「お待ちください」
「何か?」
「お嬢様がお会いしたいと」
道葉は延々と歩き続けるアンドロイドの背中を追った。
いくら広い館でも、限度がある。そもそも、普通の家屋に登ったり降りたりを繰り返さなければたどり着けない部屋があろうはずもない。
簡単なことだ。相手に目的地への道順や目的地そのものの位置を隠すため。現在位置は把握している。館の西の、一階部分。階段は、地面の下へと向かっていた。
やがて、階段が終わる。
奥の一室から仄かに照明が漏れる狭い地下の廊下。
先行するアンドロイドがドアを開ける。目に入る光量が増し、道葉は瞳孔を閉じた。
取り戻した視界の中心には、一人の少女。
長い黒髪と、白い肌。その細い身体が腰掛けるのは椅子ではなく車椅子だった。
白く細い。病的なまでにだ。白いシンプルなワンピースに身を包んだ少女は見るからに小柄で、顔立ちも幼い。道葉と比べるならば、立ち上がってなお頭一つか二つ分以上の身長差があるだろう。
未発達でありながら一つの完成形とも思えるような線の細い面立ちは甘く脆く人を魅了する飴細工のような儚げな美しさを思わせた。
少女がこちらを向いた。視線が合う。
引き込まれるような、色素の濃い瞳孔。どこまでも続きそうに深く暗い瞳がそこにあった。
「君がこの家の主人か?」
「そう」
少女は端的に答える。その声には年相応以上の意志の強さのようなものが感じられた。華奢な体つきだが、彼女に感じる空気はたおやかさなどよりむしろ凛とした気高さに近い。少女を取り巻く現在の環境が否応無くそうさせているのかもしれなかった。
恐らく、両親は死んだのだろう。子供がいればその親もいるのではないかと根拠も無い錯覚に襲われかけたが、この娘が死んでいないのが不思議な位なのだから、それが当然だ。道葉は少女の境遇に一抹の哀れみを抱くと同時に、そういえば、と思う。相手を悼むという感情を久しく忘れていたことに気がついた。
入ったばかりには随分と眩しく感じたが、部屋は案外に薄暗い。
少女が答えたきり二人の間に沈黙が続き、耐えかねた道葉は口を開く。話すべきことも見つからない故にぶつけるのは自然と警戒から生じる疑念になってしまった。
「……素性も知れない人間を招き入れるとは随分と無用心だな」
「問題ない。ミディがいる」
少女の隣に佇んでいたアンドロイドが慇懃に頭を下げた。成程、造りを見ればわかる。あのアンドロイド相手では生身の人間など相手にならないだろう。あれなら素手で人間を引き裂ける。その一挙手一投足から軍用に近いスペックを持っていることが分かった。
ミディ。どうやらそれがあのアンドロイドの名前のようだ。
「だとしても、どういう意図だ?」
「意図は特に無い。ただお話したかっただけ。人間のお客は久し振りなの。歓迎するから」
甘えたい盛りは過ぎたとしても、どう強がろうと子供は子供だ。たとえ相手が人間だというだけの理由でも道葉を善意の訪問者としてみるのかもしれない。
まぁ、そもそも相手側に何か意図があるにしても当然それを口にすることは無いだろう。
「名前を聞いていいか? 名を聞くときはまず自分から名乗るのが礼儀というのなら先に名乗ろう。俺は道葉という」
少女は軽く頷いた。そして躊躇いがちに口を開く。
「……くおん」
――クオン。
カタカナでクオンか、それとも漢字で書いて久遠か。判断しかねていた道葉の視線の先で久音、と細い指先が空中に描いた。
「私は、久音。この館の所有者。こっちはミディ。私が所有するアンドロイド」
「それで、俺に何か」
「何も。あなたはお客様だから」
「そうか。だったら頼みがある」
「私に出来ることなら、何でも」
やはり奇妙だ。何故こうも自分は優遇されるのか。何かが裏にありそうで恐ろしくなる。
「……飯をもらえるか? このところ何も食べていないんだ」
「構わない。ミディ、お願い」
「はい」
しかし、疑ってばかりでも仕様が無いのだ。道葉はまず目先の据え膳の消化に取り掛かることとした。
数分と間を置かずアンドロイド――ミディが運んできた食事に道葉は早速ありついた。缶詰だったが厨房で見たものとは別の缶詰のようだ。料理とも呼べない無機質な食事だったが、放浪同然の普段の道葉の生活では運良く何かにありつけたとしても大して変わりはしない。気にも留めないどころかありがたい。
食事が終わると部屋へと案内された。
久音の部屋と同じく地下の一角の部屋だった。客間というよりも私室に近い。簡素だが重厚な造りで、難癖をつけるにしても窓が無いことくらいだろう。
ミディがおおまかな説明を済ませ、退出した。
しばらくして道葉はベッドに座り込み、そのまま横たわった。身体が包まれるように沈み込む感触が懐かしい。心地良い感覚とともに、意識はすぐに闇へと誘われていった。
朝、眼が覚めた。
地下室の一室だ。野宿をすることはほとんどないが、誰かの手による(恐らくミディによるものだろう)手入れの行き届いた部屋で眠るのは久し振りだった。
ドアを開ける。死ぬほど驚いた。
「お目覚めでしょうか」
気味が悪い程に間の良過ぎる対応に、道葉は一瞬立ち尽くす。
まさかずっとドアの前で待っていたのだろうか。いや、主人を放って置いてそんなことを。しかしあり得ない話でもない。むしろ得体の知れない余所者である道葉に寝ずの番をしていたとも考えられる。
「すぐに食事の準備を致します。少々お待ちください」
特にやるべきこともなく席について待っていると、久遠が現れて席に着いた。軽く会釈をするが、返事はなかった。
粉末スープとインスタントコーヒーに湯が注がれ、目の前に供された。少し遅れて解凍された主食と主菜が湯気を立てながら食卓に並ぶ。道葉が涙脆い人間であれば、軽く泣けてしまいそうな豪華さだ。
遠慮なく頂くこととする。
ふと、向かいから食器の底が食卓を擦る。道葉は視線を上げた。
「食べて、まだあるから」
久音の少々不器用な声が勧める。何と言うか、下手糞に気を使われているようで背中辺りがむず痒くなる。
「……いや、もう充分だ」
言った後で自分の言葉が受け取り方によっては失礼にも取れたことに気が付く。慌てて付け足した。
「その、なんだ、少食でだな」
「そう」
「すまない」
ぎこちないやりとりはすぐに自然消滅し、なんとなく居た堪れない沈黙の中で、ただスープを啜る音だけが響いた。
◇ ◇ ◇
浅い眠りにノックが響き、眼を覚ました道葉はベッドから身体を起こした。特に何かある時間とも思えない。道葉は軽く身じろぎしながらドアの向こうに問い掛けた。
「何か、用でも?」
「道葉、さん」
ドアの向こうから返ってきたのは予想とは違う声で、道葉は僅かに眉をひそめる。
慣れてきたここでの暮らしだが正直に言うと、苦手だ。何だかんだとあのアンドロイドのほうに嫌味でも言われているほうがずっと気が楽だ。
「用はない、けど入ってもいい?」
「……勿論、構わないが」
ドアが開く。声の主が車椅子に乗っていたことを思い出して道葉はドアへと駆け寄った。
「話がしたい」
車椅子の上で、久音は道葉を見上げた。間近で見るその視点は、驚くほどに低い。彼女の見る世界と、道葉の見る世界はきっとまるで別物なのだろう。
「迷惑なら消えるけれど、」
「まさか、話し相手が欲しかったところだ」
――なにを話せばいいかわからない。
道葉と話をしたいと言った久音はいきなり黙り込み、再三問い掛ける道葉に対しようやく口にした言葉がそれだった。
流石に愕然とした。では何故話をしたいと思ったのだと聞きたくなったがそれは抑えた。誰かと話したい、そう思う気持ちは理解できる。
聞けば、久音は知らない人間と話したことが無いのだという。そう言われてみれば彼女のどこか浮世離れした雰囲気も、不自然さも、頷けないこともない。
久音はこの家からほとんど出たことが無いのだと言った。学校は、道葉は一瞬聞いてみたい衝動に駆られるが思い留まった。詮索好きは嫌われるものだ。恐らく彼女には友人と呼べる程親しい同年代の人間も、いや、そもそも見知った同じ年頃の人間もいなかったのだろう。それが幸か不幸かは道葉には分からない。
何にせよ、彼女の『世界』は原形を留めた状態でこの場所に残っているということになる。少なくともここには、十分な食糧も安全な住居も彼女を世話する者も存在する。そして、この世界の外とは強い繋がりを持たなかった。それが、年端も行かない少女がこれまで生き延びてこれた理由なのかもしれない。
「私の、」
ふと呟くような久音の声が思考を遮った。道葉が視線を向けると久音は躊躇い気味に伏せ気味だった顔を上げる。
「私のことを話せばいい?」
「ああ、お願いしようか。勿論君が嫌じゃなければの話だが」
それを見て、道葉は軽く表情を緩めた。出合ったばかりの人間と仲良くしたいのならば、共通点を探すことだ。彼女の考えも間違ってはいない。
久音はゆっくりと話し始めた。
「物心がつくころには、私の側にはミディがいた。
私の母親は私を生んですぐ死んでしまったから、ミディはその代わり。私の世話役だった。私も私の母親みたいに生まれつき身体が弱くて、学校に行くようになる少し前に、病気になった。最初の内は医者の先生も来ていたけれど、駄目。私の病気は治るようなものじゃなかったから。
しばらくして、私は家から出してもらえなくなった。
ミディがいるときはミディと遊んでもらって、そうじゃないときはずっと一人で遊んでた。ボードゲームとか、カードゲームとか。時々テレビを見て、テレビゲームもちょっとだけ。本を読むのがすき。でも絵を描くのが一番すき。知ってる? 海辺の町。山間からの道をずっと辿っていって、峠道を越えると、海が見えるの。海沿いに家が何軒も連なって、桟橋にはいつも子供たちが遊んでる。町一番の家にはその季節取れた一番大きな魚が飾ってて、お祭りになるとみんなはそこで一緒に食べて飲んで騒いで。海に、雪に、川に、森。みんなすき。でも私はそのどれも見たことが無い。じゃあなぜ描けるのかって聞かれると困るけれど、それはミディが教えてくれたから。ミディはいろいろな場所のことを話してくれた。私は何回も何回も聞いた。ミディもそういう場所には行ったことはないって言ってたけど、それでもミディは私よりずっと色んな場所を知ってた。だから、私はずっと憧れてた。ミディが教えてくれたところ、いけたらいいな、って、」
「――外に出てみないか」
流暢に流れ始めた会話の流れを断ち切って提案した道葉に、久音は随分と驚いたような顔を向けていた。
「いや、やっぱり体に悪いな。すまない」
自分の言った事の浅はかさに急に恥ずかしくなり、道葉は慌てて言葉を翻した。
「おねがい」
「……大丈夫なのか?」
「多分」
久音は顔を下げ視線を逸らした。顔付きが一目見てわかるほどに翳る。
「良くないんじゃ」
「おねがい、大丈夫だから」
まっすぐに見詰められ、道葉は喉元まででかかった言葉を吐き出せぬまま溜息をつき、首を縦に振った。
◇ ◇ ◇
「……重くない?」
「そう聞かれたら重くないと答える。嘘でもな」
久音を乗せた車椅子を階段の上へと押し上げた道葉は、投げ掛けられた問いに背中越しにそう答えむくれる久音を背後に残し先へ向かった。ドアを開ける。目の前に広々とした屋上が広がった。
幸い、やたらひどく動き回りでもしないかぎり床が抜けるようなことはなさそうだ。冷たい風が吹きつける。
「少し寒いぞ」
道葉は身を寄せてきた華奢な肩に上着を掛けた。久音を載せた車椅子が音もなく屋上へ漕ぎ出す。欄干近くまで進んで、久音は立ち止まった。
少女の長い黒髪が揺れる。服の裾が風を受けてふわりと広がった。
背筋を張り首を伸ばし精一杯見渡す彼女は今きっと道葉の見たことのない顔で、眼を輝かせているのだろう。後姿を見て道葉はそう思う。
こっそりと近づいてみた。道葉は久音のすぐ右後に立ち、取っ手に手を掛ける。
久音はまるで何かに気付いたように、唐突に、しかしゆっくりと振り向いた。道葉は訳もなく直立した。
少しの躊躇いの後、久音は口元に控えめな笑みを浮かべる。
「道葉さん」
「道葉でいい」
どうにも様にならない久音の呼び掛けに道葉は苦笑し、口を挟む。
「……じゃあ、道葉、」
指差した。
「あっちが南?」
「ああ」
「……海?」
視線を向けたまま、久音は尋ねる。道葉も縁の近くに立ち、辺りを見回した。
塀の向こうの誰もいない町並が橙色に染められ、路地に夕闇が忍び寄る。郊外に生い茂る草が風に波打ち、グラデーションが地平に広がる山々まで続いていた。
黄昏の夕陽は、今にも遠い尾根へと沈みつつある。
「多分そうだ」
「道葉は、どこから来た?」
「西から」
「西」
まっすぐに道葉を見つめる久音は小さく呟いて道葉の言葉を繰り返す。
「西には何があった?」
「いや、特に何か眼を引くものがあったわけでもないが」
観光に来たわけではない。何かを見てまわる暇も無ければ、蹂躙された国土には何か見るべきものがあるとも思えなかった。
「それでもいい。聞かせて欲しい。ここまで来るときの話とか、その前の話とか」
道葉は頷いた。この子はこの家から離れたことが無いのだ。道葉の目には何の変哲もない背景として捨て去られる風景も、彼女の眼には信じがたいものに映るのかもしれない。頷いて、道葉は頭が勝手に思い出すままにゆっくりと話し始めた。
◇ ◇ ◇
急に気恥ずかしくなった。自分が何だかとても恥ずかしいことを話してしまったような気がして、道葉は思わず視線を逸らす。
頭に手を載せた。雑な手つきで髪を掻きまわし、撫でまわした。
嬉しそうに遠くを見詰める久音の背中を見、そろそろ戻ろうと提案しようかしまいか考えていた道葉は館の一角に立つ人影に気が付いた。
目が合った。
ミディが、口を半開きにしたまま硬直していた。隠れることも忘れて立ち尽くしていた道葉の眼に、痛いほどこちらを直視していたミディの視線に鬼気迫るものが芽生えるのが見えた。
やばい、頭に浮かんだ言葉が、口に出ていたのか。久音が道葉の視線を向けるほうへと、顔を向けた。
普段は表情の薄い久音の顔に、驚くほどの驚愕の色が浮かぶ。
「そんな、どうしよう」
久音が先ほどのミディの形相に劣らず異様な風体を帯び始める。ひどく呼吸が乱れ、眼は焦点が合っていない。尋常ではない取り乱し様に、道葉も引き摺られるように狼狽える。
「はやく、降りなきゃっ」
「だが、もう見られて……おい!」
久音が制止を振り切って昇降口へと向かう。明らかに無理のある速度で。
少し遅れて駆け出した道葉の耳に、みし、と気味の悪い音がはっきりと響いた。かすかな悲鳴が上がる。車椅子が階段を転げ落ちる轟音と共に掻き消されかけた悲痛な声。悪寒が背筋を伝う、腹の底が抜けた、言い表しようのない恐ろしさが全身を駆け巡って、
昇降口へと飛びつき歯を食いしばって下を覗き込んだ道葉は動きを止める。
踊り場で久音を抱き止めたミディが、憤怒の形相でこちらを睨みつけていた。
◇ ◇ ◇
急に気恥ずかしくなった。自分が何だかとても恥ずかしいことを話してしまったような気がして、道葉は思わず視線を逸らす。
頭に手を載せた。雑な手つきで髪を掻きまわし、撫でまわした。
嬉しそうに遠くを見詰める久音の背中を見、そろそろ戻ろうと提案しようかしまいか考えていた道葉は館の一角に立つ人影に気が付いた。
目が合った。
ミディが、口を半開きにしたまま硬直していた。隠れることも忘れて立ち尽くしていた道葉の眼に、痛いほどこちらを直視していたミディの視線に鬼気迫るものが芽生えるのが見えた。
やばい、頭に浮かんだ言葉が、口に出ていたのか。久音が道葉の視線を向けるほうへと、顔を向けた。
普段は表情の薄い久音の顔に、驚くほどの驚愕の色が浮かぶ。
「そんな、どうしよう」
久音が先ほどのミディの形相に劣らず異様な風体を帯び始める。ひどく呼吸が乱れ、眼は焦点が合っていない。尋常ではない取り乱し様に、道葉も引き摺られるように狼狽える。
「はやく、降りなきゃっ」
「だが、もう見られて……おい!」
久音が制止を振り切って昇降口へと向かう。明らかに無理のある速度で。
少し遅れて駆け出した道葉の耳に、みし、と気味の悪い音がはっきりと響いた。かすかな悲鳴が上がる。車椅子が階段を転げ落ちる轟音と共に掻き消されかけた悲痛な声。悪寒が背筋を伝う、腹の底が抜けた、言い表しようのない恐ろしさが全身を駆け巡って、
昇降口へと飛びつき歯を食いしばって下を覗き込んだ道葉は動きを止める。
踊り場で久音を抱き止めたミディが、憤怒の形相でこちらを睨みつけていた。
◇ ◇ ◇
屋上での一件以降、ミディの態度が明らかに硬化した。視線に込められた敵意も、言葉に含まれる棘も以前とは比べ物にならない。
不思議と苦にはならなかった。それ以上の居心地の良さを感じていたのかも知れない。
久音のぎこちなさは――ミディに怒られたのが相当応えたのだろう――輪を掛けてひどくなった。道葉も人の事は言えない。
だが、たとえぎこちなくとも、誰もいないよりはずっといい。無愛想なくせに不自然に親切な久音、もしかするとだが、いがみ合ってばかりのミディでも、返事をしてくれる誰かがいるという感覚はやはり何物にも代え難いものだった。
そう感じる自分を、どこか心の奥深くで後悔し始めていた。
冷たくない水で身体を洗うことも、手入れされて寝床で眠ることも、久しく無いことだった気がする。まして誰かと食卓を囲んで食事を取ることなど、今までの自分を振り返って、過去に見出すことの出来る経験だっただろうか。
一人でいることには慣れているが、一度人の温かさに触れるとまた最初から孤独に慣れる努力をしなければならない。
手放せなくなる前に、どうしても捨てなければならないのだ。
滞在延長の申し出は、断らなければならない。
荒廃した外界から締め出された地下室には、一条の月明かりも届かない。手にした僅かな明かりだけが道葉を照らしていた。
宵闇に包まれた館の地下に、道葉の影が揺れる。静まり返った夜の世界に廊下と靴底がぶつかる音だけが木霊する。
静寂を突き破る、自分以外の立てた音。足音ではない。車輪が床の上を走る音だ。
「どこへ」
道葉は振り返る。振り返ったことを後悔した。
「どこにいくの」
歩を進めるたびにきしむ、古びた階段が憎らしかった。
「ここを出る」
「どうして」
「出らなきゃならない、どうしても」
「なぜ、何も言わないで?」
内心の動揺が、道葉に自らを嘲けさせる。そうだ、どうして何も言わずに出て行く。まるで逃げるようにだ。
「その必要があったからだ」
そう、必要があったのだ。もし引き止められれば、去ることは出来なかったかもしれない。
「食糧もある。ここなら少々の自給も出来るのに」
久音の手が道葉の腕へと伸びる。
「理由があってな。そう長く逗留する訳にもいかない」
縋る細腕を振り払った。一度踏み出した足は、もう止める気はなかった。車椅子の上の久音が、階下から声を上げもせず遠ざかる後姿を見上げていた。
『まって』
ようやく搾り出されたような少女の叫びが弱々しく耳に届く。道葉は振り返らず答えた。
「悪いが、断る」
無愛想なくせにやけに構ってきて、下手糞な気の使い方ばかりする。どうして、どうして自分にここまで執着するのか。
「……指図されるのは嫌いでね」
後ろ髪を引かれる思いを、道葉は不器用に断ち切った。
階段を上り、手入れのされていない庭を横切り、考えてみれば初めて通る正門を急かされるように早足で後にし、通りへと踏み出した。
軍隊においては全体の半数を失えば全滅と見なされる。最前線で戦う部隊でさえ、たとえ負傷兵や捕虜の全てが残らず虐殺されたとしても一割程度の生き残りは存在する。
だが、この町ではそれすら存在しない。
冷酷な機械兵団に踏み荒らされ、不慮の事故によって漏れ出した自国のBC兵器に蹂躙される以前から、この町には人がいなかった。極端な過疎に加え、戦争の被害で最低限の構成員すら失ったこの町からは、社会構造が崩壊し自給を果たすだけの供給能力は消え去った。
おぼろげな月明かりだけが住人を失い廃墟と化した町を照らし、町の至るところに妖しげな影を棲まわせていた。
同じような場所はこの国に幾らでも存在するだろう。それがこの国の姿だ。
忘れかけていた。
これでいいのだと道葉は思う。これが世界の本来の姿だ。寂れひび割れた道路が足元で音を立てていた。
そう大きな町でもない。しばらく歩けば、街外れまでたどり着く。
そして、街外れまでたどり着いたならば。
街外れには、軍道がある。
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